批評めいたもの

批評めいた散文をまとめる。

 なにかひとつを選ぶということは、それ以外のすべてを選ばないということだ。なにげない選択であったとしても、選ばれたものの背後には、無数の選ばれなかったものたちがある。たとえばいま、ここに書きつけられていることばは、それ以外のすべてのことばを選ばなかった結果として、読まれている。類似した意味を持つ他のどのことばでもなく、このことばを選んでしまった、というよりむしろ、選ばざるを得なかった、否応なしに選ばされてしまった、という事態を、どのように考えるべきだろうか。選別のおぞましさを忌むべきなのか。それとも、選択の切実さを受けとめるべきなのか。あるいは、また。

 この問いへの答えをいくつかの候補の中から選ぼうとしても、結局は堂々巡りに陥るだけだ。そこで、問いそのものを、ちょっと横滑りさせてみる。他のすべてのことばを切りすてて、たったひとつのことばを選びとってしまうこと。選択にまつわる暴力性と、のっぴきならない感情の高ぶりが、ことばを選ぶとき、選ばされてしまうときと同様にあらわになっている状態を、〈私〉は知っているのではないか。他のすべてのひとに恋をする可能性を振り捨てて、たったひとりのひとに、自らの心身をかけて恋い焦がれてしまう、というように。

  

 

 耳元のスピーカーからいかにもラテン的な粘っこい節回しのテノールが流れている。ヴォリュームを絞ってあるため、遠くで歌われる声を聞いている感じがする。眼を閉じると自分がどこにいるのかわからなくなり、危うく現実感を失いそうになる。

 ラテン歌手よりも甘い香りを放つアルトで花世は言った。

「あなたは誰が相手でもいいんじゃないかと疑ってたのよ。」

「どうして?」

 胸に花世の重みがかかっているせいで私の声は濁る。

「だって、他の女に触られても嬉しそうにしてるじゃない。」

「でも、別に感動はないから。」

 感動、と花世は低く復唱した。私はきっぱりと言った。

「あなたにしか感動しない。」

 私なんかのどこがいいのよ、と呟いて花世は私の左肩を噛んだ。[1]

 

  

 『ナチュラル・ウーマン』という連作小説の語り手である〈私〉は、十九歳になるすこし前、とある漫画サークルで出会った諸凪花世という女性に、生まれて初めての恋をする。花世と肌を触れあわせることは、〈私〉に、他のひととでは絶対に味わうことのできない「甘い感動」をもたらした。

 「たまたま女に生まれてついでに女をやってるだけだ」という〈私〉と、異性と交際し、互いの性器を繋ぎあわせるだけの「つまらない経験」を「女である以上」は「やるものだ」と考えていた花世。だから当然、「男と女ごっこ」が、この恋愛関係において、場を持つことはできない。やがて二人は、肛門を用いた「私たちに適った性行為」を発見することになるのだが、それまで「女である」ことを無心に引き受けていた花世のからだは、〈私〉のことばによって、幾度も切りつけられてゆく。

 

 

 ラテン歌手がオー・メウ・アモールと歌う。花世のアルトが重なる。

「女と何かしたいなんて思ったことはないのに。」

 私は尋ねる。

 「男とはしたいと思ったことあるの?」

 私の上で花世の体が微かに揺らいだ。

「いい質問ね。」

 小さな溜息が項にかかる。

「そんな質問をするのはあなたくらいよ。だから――」

 花世は私の手の甲に爪を立てた。

「だからあなたが憎らしくって、いつか殺してやろうと考えてたわ。」[2]

 

 

 自らが「女である」という「ついでの部分のことなんかどうでもいい」と語る〈私〉は、花世が〈私〉と出会うまでとらわれていた、いや、ひょっとしたら今でもとらわれているかもしれない、異性愛を自然で正当なものとするコードから、遠く離れたところに立っている。〈私〉は、引用部のような問いを投げかけることによって、コードを疑いもしなかった花世の「愚鈍」さを、図らずも暴いてしまう。一見すると、従順で受動的な立場を好む〈私〉と、すこし乱暴で能動的な立場を好む花世のあいだには、一方的な支配/被支配関係が成り立っているように思われるかもしれない。けれども、そうではないのだ。〈私〉のことばは、花世のからだを容赦なく切りきざみ、彼女を丸ごとつくりかえようとする。

 

 

 ところで、〈私〉と花世の恋の顛末が描かれた「ナチュラル・ウーマン」という中編には、さきほどの引用にもあるように、いくつかの歌が流れている。歌が流れているとは、どういうことか。歌には歌詞がある。つまり、ひとつながりのことばが、ことばではないもの――メロディーに乗せられて、〈私〉の耳に届く。さらに、歌はそれぞれにタイトルを持っている。タイトルもまた、ことばである。ことばと、ことばではないものの全体を、ことばが指し示している。

 『ナチュラル・ウーマン』という連作全体を見渡してみると、〈私〉はさまざまな音に取り巻かれている。経血の滲んだマットレスを濡れ雑巾で叩く音。台風の夜の海鳴り。晴れ渡ったその翌日、台風の名残を感じさせる風のうなり。けれども、それらはことばを伴うことのない、単なる音だ。〈私〉が歌を聴き、また、人の声に歌われることばの意味に触れているのは、「ナチュラル・ウーマン」というテクストの、それも中盤までに限られている。

 歌のタイトルと、その歌詞の一部が引かれているのは、とある二つの曲だ。いずれも、〈私〉のことばによって、花世が変身させられようとしている、変身させられてしまった場面に聞こえてくる。

 

  

 レコードをセットして花世は戻って来た。私の前に膝をつき今日二度目の接吻をする。ベッドの上の窓の両横にかけたスピーカーから、十年は前の録音と思われるエレクトッリク・ギターの前奏に続いて、甲高い女性歌手の歌声が流れ出す。アリサ・フランクリンの「チェイン・オブ・フールズ」だ。(…)

 私はあなたに恋する愚か者の列に加わった、とアリサが歌っている。この歌詞に倣って言えば、私は昨夜花世に求愛し受け入れてもらった者たちの列の最後尾に連なったわけだ。何とも時機を得た選曲だが、花世はわざとこんな曲を私に聴かせようとしたのだろうか。(…)

 「今まで性欲ってどういうものなのか知らなかったけれど。」ひとりごとの調子で花世は話す。「やっとわかったわ、私にも性欲があるんだということが。」[3]

 

 

 男との「つまらない経験」を重ねてきた花世が、〈私〉と肌を重ねることを通じて、初めて「性欲」を感じた、と伝える場面である。「男と女ごっこ」になびくことをよしとせず、〈私〉と花世は二人なりに、お互いの欲望に適う気持ちの良いことだけをしようと試みてきた。さきほども触れたとおり、二人は試行錯誤の末、花世が〈私〉の肛門にさまざまな方法で刺激を加えるという、「私たちに適った性行為」にたどりつくことになるのだが、その直前の場面でもやはり、アリサ・フランクリンの歌が聞こえてくる。

 

 

「アリサの『ア・ナチュラル・ウーマン』を憶えてる?」

「憶えてる。」旋律を思い出してから私は答えた。「キャロル・キングとジェリー・ゴフィンのつくった歌。」

「そう、あなたと会って初めて私は生き始めた、ナチュラル・ウーマンになったっていうような歌。」

 花世は私の肩と腰に手をかけ俯せに引っくり返した。

「不思議なんだけど」背中の上から囁きかける。「私、あなたを抱きしめた時、生まれて初めて自分が女だと感じたの。男と寝てもそんな風に思ったことはなかったのに。」[4]

 

 

 アリサ・フランクリンの「ナチュラル・ウーマン」は、この中編の題でもあり、また、連作全体のタイトルにも使われている。「女である以上」は、異性との恋愛・性愛経験を積むべきだと思っていたという花世が、自らが「女である」ことを初めて肯定的に語る重要な場面だ。意に沿わぬ「男と女ごっこ」を義務感から演じていた彼女にとって、この発見は大きな意味を持つだろう。引用部分の後、〈私〉と花世は肛門を用いた「性戯」にふけり、満ち足りた時間を過ごすことになるのだが、しかし、二人の幸福は長くは続かない。

 「男と女ごっこ」に代表されるような、多くのひとびとにとって自明のコードを、〈私〉たちは採用することができない。また、すでにふれたとおり、〈私〉の投げかけることばは、「男と女ごっこ」というコードをその身に引き受けていた花世の身体に、いくつもの裂け目を走らせるものだった。あるコードを信じることができないということは、そのコードに則って用いられることばを信じることができない、ということでもある。〈私〉は、一度、花世に「本当のセックス」のありかについて、尋ねていた。「これぞ正真正銘のと呼べる、純正で理想的な、セックスの典型ってあるのかしら?」と。

 ここで〈私〉が問うているものを、「本当のことば」、あるいは、「ことばの本当の意味」と置きかえてみてもいいだろう。「ことばの本当の意味」を求めるあまり、〈私〉と花世のあいだでは、ことばが、もはや意味を持たないただの音になってしまう。

 

 

 花世は身をかがめてスリッパを拾い、腰を上げた。ゆっくりとした動きだったが、彼女が感情を昂ぶらせたのはわかった。花世は私の前に立つと手にしたスリッパで俯いた私の顎を持ち上げた。

「そんなに私が好きなの?」

 私は花世の深いブルーのセーターの胸元を見ながら頷く。花世はスリッパの底で私の顎を撫でた。

「本当に?」

「好きよ。」

 頬が鳴った。私の顔は真横に向いた。音よりも遅れて湧き上がった痛みに私は眼を閉じた。

「嘘つき。」

 顔を戻すと、熱い頬に冷たいスリッパの底が押しつけられた。スリッパは頬から顎へ、そして額や鼻に動いた。なぶるような動きでスリッパは私を撫でていた。

「私を好き?」また花世が尋ねた。

「好き。」

「嘘つき。」

 さっきと同じ所にスリッパが打ちつけられた。私は片手をベッドについた。体を立て直してなぜと問いかけようとした。が、花世の問の方が早かった。

「私を好き?」

「好き。」

「嘘つき。」

 三度目のスリッパを受ける。

 同じ問に同じ答えを返し同じ打撃を受けるうちに、「なぜ」という疑問は頭から叩き出されて行った。残っているのは「好き」ということばだけ、あとは空白だった。眼の前のものも白っぽく遠のき、ほとんど何も見えない。私は人形だった。[5]

 

 

 花世に接吻されれば、「こんなひどいゲームの後でも沈み切った心を裏切って」、〈私〉の「体は熱を帯びる」。それまで、〈私〉と花世のあいだでは、恋愛の喜びと性愛の愉しみが結びついていた。けれどもここで、「心」と「体」が分離してしまうのだ。意味を失ったことばが、ただの音として浮遊しているような空間では、「熱愛する人間」と肌を重ねることがもっとも強い快感をもたらす、といった類の、恋愛と性愛を同一線上にとらえるコードまで無化されてしまう。

 

 

 さらに、この「ひどいゲーム」を経て、「ナチュラル・ウーマン」ということばの意味も反転する。

 

 

「あなたと会ってナチュラル・ウーマンになれた、と言ったわよね、昔?」

「言ってたわよね。」

「あなたはどうなのかしら? いつかナチュラル・ウーマンになるのかしら? それとも、そのままでナチュラル・ウーマンなの?」

 耳に入った瞬間に心臓の膜を破り血に混じって体中に回りそうな質問だった。

「考えたことないわ。」

 辛うじてことばを返したが、涙が滲んだ。自分が何なのか、いわゆる「女」なのかどうか、私にはわからない。そんなことには全く無関心で今日まで来た。これからだって考えてみようとは思わない。けれども、だからこそ、たった今花世から発せられた問が痛烈に響いた。一人きりで絶壁の縁にいるのを教えられたようなものであった。[6]

 

 

 〈私〉と出会ったことで、自らが女であることを肯定的にとらえられるようになった花世。その肯定は、力強いものだ。男に愛されなくとも、男を愛さなくとも、自分は「ナチュラル・ウーマン」なのだ、ということ。花世は、異性愛を絶対的なものとして中心に据えるコードが骨身に染みついた自らのからだを、何度も何度も〈私〉に切りきざまれながら、自らが「ナチュラル・ウーマン」であるという自認に辿りついた。

 けれども、自分は「ナチュラル・ウーマン」であると認識することは、男と女という二元論を受け入れる、ということでもあるのではないか。

 そもそも、「ナチュラル・ウーマン」とは何なのだろう。〈私〉と花世の会話で触れられている部分の歌詞を、ここに引いてみよう。

 

 

  Before the day I met you

  Life was so unkind

     But you’re the key to my peace of mind

 

     ‘Cuz you make me feel

     You make me feel

     You make me feel like a natural woman[7]

 

 

〈あなた〉と出会うまで、〈私〉の人生は厳しいものだった、けれども、〈あなた〉は〈私〉の心を安らがせてくれた、〈あなた〉のおかげで、〈私〉は自分が「ナチュラル・ウーマン」であるかのように感じられた。

 大意はこのようなところだろう。決して、難解な表現が用いられているわけではない。しかし、この歌のタイトルにもなっているサビのフレーズ――”you make me feel like a natural woman”を、一体、どのように考えるべきなのだろうか。恐らくそのヒントになるのは、『ジェンダー・トラブル』におけるジュディス・バトラーの眼差しだ。ジェンダーはセックス=解剖学的な性に基づいて「自然」に身につくものではなく、パフォーマティヴに構築されるものだ、という議論が展開される第一章五節において、バトラーは、この歌に言及している。

 

 

 「女のように感じる」ことが真実となるのは、アリサ・フランクリンの「あなたのせいで当たり前の女のように感じる」という言葉にみられるように、女を定義する他者を引き合いに出すかぎりにおいてのみである。このようにして獲得されるジェンダーは、それと対立するもう一方のジェンダーと区別される必要がある。したがってひとがあるジェンダーであることは、そのひとがもう一方のジェンダーでないということであり、この公式はその前提として、ジェンダーを例の二元的な対に閉じ込めるとともに、それを強化するものでもある。[8]

ここでは、「あなたのせいで当たり前の女のように感じる」というように、「ナチュラル・ウーマン」がネガティブな属性として語られている。花世は、「女を定義する他者」=男性との不本意な交渉に頼らずとも、自らが「ナチュラル・ウーマン」であることを認められるようになった。その点、花世の言う「ナチュラル・ウーマン」には、「当たり前の女」という否定的なニュアンスは含まれていない。けれども、〈私〉にとって「ナチュラル・ウーマン」という存在のありようは、「ジェンダーを例の二元的な対に閉じ込めるとともに、それを強化する」ことにもなりかねない、危険なしろものだ[9]。〈私〉が「絶壁の縁にいる」というのは、そういうわけなのだろう。

 

 

 別れ話の際、「何だか、いつもあなた一人がいろいろなことをわかってたみたい。私は何も知らなくて。」と、何気なく口にした〈私〉に、花世は反論をする。「それは逆でしょう? 私はあなたが恐かったくらいよ。あなたは空を飛びかねないほど自由で、私は愚鈍に地べたを這いずり回っていて。」

 「空を飛びかねないほど自由」な〈私〉に、男と女という「二元的な対」を甘んじて引き受けることなど、できるわけがない。だから、たとえ「一人きりで絶壁の縁」に立たされているのだとしても、〈私〉は決して「ナチュラル・ウーマン」になろうとはしない。

 花世と別れた後、〈私〉がどのような「女友達」[10]と交際をし、どのような問題に直面するのか、といったありさまは、「いちばん長い午後」「微熱休暇」という、連作を構成するその他のテクストに描かれている。「いちばん長い午後」には、夕記子という女友達が登場する。〈私〉は、彼女と体の関係は持つことができても、恋愛をしそこねている。「微熱休暇」では、〈私〉は想いを寄せる由梨子という女友達と、伊豆に二泊三日の旅行に出かけているが、夕記子の場合とは反対に、恋情が募るあまりに、性的な関係を結ぶことができない。

 すでにふれたとおり、花世と別れた後、〈私〉の周囲には歌が聞こえなくなる。つまり、音と、その音に結びついていたはずのことばが切り離されて、音だけになる。同様に、意味の擦り切れた「好き」ということばが、女友達に向けられることもなくなる。どうしたら恋する相手と関係を続けてゆくことができるのか、「ナチュラル・ウーマン」でないとしたら、〈私〉はなんなのか。花世との別れを経て、夕記子、由梨子という「女友達」との交際を経験しても、〈私〉が答えにたどりつくことはない。〈私〉の身に起きた出来事の順序とは異なり、『ナチュラル・ウーマン』という書物に収められた順序――「いちばん長い午後」「微熱休暇」という順序で読み進め、最後に「ナチュラル・ウーマン」というテクストを読むことになってしまった、読まされることになってしまった「読者」にとっても、それは同様である。答えは出ない。

 けれども、答えを出さないまま、あいまいな状態に留まり続けることこそが、覇権的なコードに抵抗するための戦略的な身ぶりなのだ、としたら。

 「同性愛」的なモチーフが描かれる作品のつくり手が、「同性愛者」であるかどうか、ということが、未だに問題にされることがある。『ナチュラル・ウーマン』の作者として知られている松浦理英子は、「フリーネ」や、その後継とも言うべき「アニース」という「レズビアン」向けの雑誌にしばしば登場しているが、自身のセクシュアリティを明かしたことはない。そのことについて、松浦自身は以下のように語っている。

 

 

 公式に「レズビアンか」と聞かれて「はい」と答えれば、マジョリティは「かわいいやつ」と言って、マイノリティという形でマジョリティ社会に組み込んでしまう。(…)理解したいというような欲求を突きつけられたら逆に混乱させてやるというようなことも、(…)必要である。[11]

 

 

 改めて振り返ってみるまでもない。『ナチュラル・ウーマン』において、〈私〉は自らを「同性愛者」あるいは「レズビアン」と定義していない。「自分が男を好きだったらどんなにいいだろう」と、冗談めかして口にすることはあっても、自分は女が好きな同性愛者だ、と表明することはなかった。もちろん、「作者」である松浦理英子と、彼女の作品の登場人物を、同一視しようというのではない。けれども、ここにはあるひとつの共通した態度を見出すことができる。「レズビアン」あるいは「バイセクシュアル」という「原因」が、同性を愛するという「結果」を生み出す、という通俗的な「理解」への反抗。

 男と女、という二元論とともに、異性愛と同性愛、という二元論を考える必要があるだろう。はっきりと同性愛である、確固たる同性愛者である、というように〈私〉たちの関係をとらえてしまっては、『ナチュラル・ウーマン』というテクストを読みそこねてしまうことになる。なぜなら、「同性愛」というカテゴリーは、「異性愛」という制度を逆向きに支えているものに他ならないからだ。

 ことばの意味を削ぎ落とし、支配的なコードを疑ってかかること。『ナチュラル・ウーマン』において行われていたのは、まさにそのような試みだった。確かに、その試みこそが、〈私〉の恋愛をくじいてしまったものかもしれない。けれども、「女」だから、「男」だから、と、恋する主体をがんじがらめにするコードに管理された、息の詰まるような恋愛などには、そろそろ見切りをつけてもいい頃ではないか。たとえその場所が「絶壁の縁」であったとしても、〈私〉と〈あなた〉であり続けるための恋愛を開発するべきだし、開発できるだろう。逆説的なことかもしれないが、きっと、それにはことばがいる。

 

 

[1]ナチュラル・ウーマン』松浦理英子河出書房新社、1991年)、128頁

[2] 同書130頁

[3] 同書134-135頁

[4] 同書159頁

[5] 同書199-200頁

[6] 同書207頁

[7] Gerry Goffin,Carole King,Jerry Wexler “(YOU MAKE ME FEEL LIKE) A NATURAL WOMAN” ArethaFranklin

[8]ジェンダー・トラブル』ジュディス・バトラー竹村和子訳(青土社、1999年)、54頁

[9] しかし、同書の註部分で、バトラーは別の見方も示している。「アリサの歌はジェンダーの自然化にも異を唱えている。『自然な女のように』というフレーズは、『自然さ』がアナロジーや隠喩によってしか達成できないものであることを示している。つまり、『あなたによってわたしは、自分が自然さの隠喩のような気になり』、『あなた』がいなければ、脱自然化された基盤が現れ出ることになる。」(同書266頁)

バトラーの議論と、本稿の論旨をより有機的に接続させることは、今後の課題。

[10]ナチュラル・ウーマン』において、〈私〉が恋愛、あるいは性愛関係を結ぶ相手は、すべて「女友達」と呼ばれている。その他の様々なコードと同様に、「恋人」という制度に対しても、極めて慎重に距離が図られている。

[11] 「アニース」2001夏号