憂鬱でいいじゃん

以前サンリオピューロランドへ遊びに行ったとき、あるショーでキティさんがこんなようなことを言っていた。

「誰にだって憂鬱になるときはあるもの!」

いちおう文脈を説明しておくと、みんな仲良く平和に暮らしていた(もとい、キティさんをピラミッドの頂点に据えた「カワイイ」による統治が行き渡り安定した秩序が保たれていた)サンリオピューロランドの世界に、なにやらあやしげな魔女たちがやってきたんである。

ダニエルくんという、正直なんでいるのかよくわからない男の子のキャラクターが「やっつけてしまえ!」と武力行使を訴えるのに対し、キティさんは「そんなことダメ!」とダニエルくんを制止する。

「誰にだって落ち込んでしまうことはある。私にだってあるもの。だから話せば、きっとわかる!」

記憶があいまいで細部まで鮮明に思い出すことはできないけれど、キティさんがおおむねそのような趣旨の発言をしていたことは確かだ。その台詞には、かなりの衝撃を受けたから。

キティさんのような世界的なキャラクターが、いわばひとのこころのダークサイドとでも言うべき(キティさんたちが「ひと」であるかどうかいうのはさておき)ネガティブな感情をおおっぴらに肯定するなんて。しかもキティさんは、「私にだってあるもの」という風に、自分自身のこころにも暗い感情が芽生えることがあると告白しているのだ。それはとても勇敢な振る舞いだとわたしはおもう。理解しあえない相手、理解しあえそうにない相手と対峙したとき、じぶんから相手に歩み寄っていくことはほんとうにむずかしい。得体の知れないものはこわいし、おそろしい。だからつい暴力に頼ってしまいそうになる。ダニエルくんのように。

キティさんが対話によってあやしげな魔女たちとこころを通わせていくさまを、呆然と見つめていたダニエルくん(たぶん)。わたしはそんなダニエルくんに、どこか自分を重ねていた。

そう。ダニエルくんがわたしなら、キティさんは中島健人だった。

 

6日に発売されたSexy Zoneの新曲「イノセントデイズ」をきいて、わたしはサンリオピューロランドでみたショーの一連を思い出したのだった。この曲はメンバーの佐藤勝利さんが出演しているドラマの挿入歌にもなっているし、5月のコンサートでも何度か聴いているので、発売前から耳に馴染んでいた。にもかかわらず。リリース日である6日、改めてフルバージョンのこの曲を聴き、わたしはぼろぼろと泣いてしまった。いい。なんてすばらしいんだイノセントデイズ。そしてなんてやさしいんだセクシーゾーン。

終わりの見えない仕事を家に持ち帰り、行き詰っていた創作小説のファイルをむしゃくしゃして消し、「ええっ!?なめこさん結婚願望ゼロなの!?なんで~!?」と半笑いで雑にいじってきた同僚を呪いつつ、夕飯のつもりで買ってきたブタメンをすすっていたわたしは、やるせない現実のすべてを、みにくい感情のすべてをセクシーゾーンに許された気が勝手にしてきて、涙が止まらなくなった(そして、あ~とかう~とか言いながら、伸びてぶよぶよになったブタメンを喉に流し込んだ)。

いったい、なにがそんなに泣かせるのか。

 

なにがだなんて、それはもうすべてとしか言いようがない。どんなにことばを尽くしたところで、セクシーゾーンは、というか中島健人は、常にことばを越えたかがやきをはなち続けているのだから。なんて言いつつ、それでも語ることをやめられないからこんなブログを始めてしまったわけだけれど。

ここがいい、あそこがいい、と、Music Clipも含めていくらでも賛辞を捧げられそうな作品なのだけれど、「イノセントデイズ」でわたしがもっとも感動したのは、以下のフレーズである。

「白い絵の具に紛れた黒が 少しずつ育ってくけど それでいいさと 憂鬱も愛していこう 僕なりの現実(いま)を」

「憂鬱も愛していこう」だよ。セクシーゾーンが、「憂鬱も愛していこう」って歌ってくれてるんだよ。あのセクシーゾーンが。棘だらけの薔薇を背負って、痛いぐらいにまぶしいひかりのなかをもがきながらまっすぐに進んできた、あのセクシーゾーンが。しかもこのパートを歌っているのは、他ならぬ中島健人さんだ。

わたしにとって中島健人さんというひとは、生きる目標であり、目的でもある。中島健人のようになりたいし、中島健人に恥じない人間でありたいと、ずっとおもってきた。その中島健人さんに「憂鬱も愛していこう」と歌いかけられて、わたしはただただ動揺してしまった。

なにかと落ち込みがちで陰気な性格をしているくせに、わたしはそういう自分をいまだに許せていない節がある。できない自分が恥ずかしい、がんばれない自分がだいきらい。「誰かの役に立たない人間は生きている価値がない」「何事もがんばっていない人間は面白みもクソもない」というような意見には全力で歯向かうくせして、がんばっていない自分、がんばれない自分を認めることができない。

わたしはわたしの「憂鬱」を愛せていなかった、と思い知らされたのだ。中島健人さんに。誰よりも負けず嫌いで、誰よりも努力をし、誰よりもストイックな、中島健人さんに。

「イノセントデイズ」のひとつ前のシングル、「ぎゅっと」でも、中島健人さんはこんな風にわたし(たち)に歌いかけていた。

それでも夜は明けるけれど 君にとっては ツラいんだろうな」

明けない夜はないんだから前向いてこうぜ、という元気の押し売りではない。夜が明けるとしても、いま君がつらいならそのつらさがすべてだよね、という現状の肯定なんである。

確か太宰治「女生徒」でも、語り手が同じようなことを言っていた。いつかはつらくなくなる、時間が解決してくれる、と、ひとは言うけれど、わたしは今つらいんだと。今まさにこの瞬間がつらいと訴えているのに、いつかはつらくなくなるだなんて適当な誤魔化しを言って、わたしのつらさをないものにしないでくれと。

アイドルの曲をきくこと、アイドルにふれることは、つらい現実に対する抜本的な解決にはならないかもしれない。セクシーゾーンがどれだけすばらしいパフォーマンスをしてくれたとしても、むかつく上司が消えるわけでもないし、就職先が決まるわけでもないし、レポートが終わるわけでもないし、友達と仲直りできるわけでもない。けれども、愛してやまないアイドルが、どうにも抱えきれないわたし(たち)の憂鬱に寄り添ってくれるというのは、なんてこころづよいことだろう。

決して、わたし(たち)の憂鬱をなかったことにしない。つらい現実を見過ごさない。わたし(たち)が自分自身の憂鬱を、憂鬱になってしまう自分自身を愛することができなければ、かわりに彼らの方から愛してくれる。

それがセクシーゾーンというグループであり、中島健人というアイドルなのだ。

 

わたしはずっと、自分が「ジャニヲタ」であることを認められずに生きてきた。かつ、「ジャニヲタ」であるひとたちとも深いつながりを持つことができずにいた。なぜなら、わたしは男性アイドルのファンとして想定されることのない存在であり、「ジャニヲタ」のメインストリームに交わることをはなから諦めているからだ。

男性アイドルのファンとしてファンとして想定されることのない存在とは、どういうことか。つまりそれは、わたしがヘテロセクシュアルの女性ではないということ。必ずしも「異性」として推しが好きなわけではないということ。

とはいえ、アイドルに対して「ガチ恋」「リア恋」と呼ばれるような感情を抱くファンを否定しているわけじゃない。むしろわたしはそういった痛切な感情のすべてがとうといとおもっているし、中島健人が女性だったら、今抱いているような敬愛の念よりむしろ深刻なガチ恋をしていただろうという気がしている(どうしようもない妄想だけれど)。

ただ、きっと多くのひとにとっては些細におもえるような出来事でも、自分にとってはそうではない、ということがある。たとえば、アイドル雑誌のインタビューなどではお決まりとなった「好きな女の子のタイプは?」という質問。どうして男性アイドルがみんな異性愛者だと決めつけるのか? そもそも、男性アイドルがみんな恋愛をしたがっているとも限らないじゃないか? と、わたしはこの手の質問にいまだに傷ついてしまう(もはや定型化された問いではあるので、これになんと答えるか回答を工夫することで、それぞれのキャラクターを打ち出す一種のパフォーマンスとして活用している、という面もあるかもしれないけれど)。

わたしはこの歳になってようやく、かわいいお洋服も着られるようになったけれど、それは異性に「かわいいおんなのこ」だとおもわれたいからじゃなくて、自分に自分の好きなお洋服を着させてあげたいから。だからわたしの思う「かわいい」は、きっと「一般的な男性」にとって「かわいい」ものではないのかもしれない(だから何だよとわたし自身は思っているけれど)。

そんなわけだから、わたしはずっと「ジャニーズを好きな自分」と「異性愛者ではない自分」の折り合いを、うまいことつけられずにいた。どうしておとこがきらいなのにジャニーズが好きなんだ、と。わたしのようなものがジャニーズを好きでいていいのか、と。ジャニーズというメジャーな文化を、メジャーな方法で愛することのできない屈託を、自分なりにずっと抱えてきた。「二宮和也はわたしだ~!」とおもっていた思春期のときも(二宮和也のことがすきすぎて何故か二宮和也はわたしだとおもっていた。でも同時代におなじようなことおもってた陰気なおたく他にもたくさんいるとおもう)。「北山宏光の部下になりてえ~!」と切に望んでいた大学生時代も(北山宏光と一緒に仕事したすぎて半ば本気でジャニーズ事務所に入ろうとしていた)。

 

けれども、中島健人をすきになって数年が経ったいま、わたしは彼に自分が救われつつあることを感じる。

セクシーゾーンのファンは、ある時期まで「セクシーガールズ」(通称セクガル)と呼ばれていた。セクシーゾーンを推し始めた当時すでに成人していたわたしは(ちなみに中島健人は初めてできた自分より年少の推しだった)、「いやあ、さすがにガールズはきついな…」と界隈を遠巻きに眺めていた。自分自身を「ガールズ」だと思えなかったこともあるし、その呼称では、当然いるであろう男性ファンの存在が抜け落ちてしまうのもさみしかった。彼らが若くしてデビューしたことと、ファンの年齢層のボリュームゾーンを考えれば、仕方がなかったかもしれないけれど。

でも、中島健人さんはあるとききっと気付いたのだろう。「セクシーガールズ」という呼称が排除してしまっていた、ファンの存在に。

彼はある時期から、ファンのことを「セクシーラバーズ」と呼び始めた。性別も年齢も問わないその呼称を初めて現場で直接耳にしたのは、先日の横浜アリーナで、だった。腰がくだけそうになった。それはまるで中島健人に、「ここにいていいよ」と言われているようだった。中島健人が、わたしがここにいることを肯定してくれた。真のセクシーとはこれだとおもった。中島健人さんの掲げるセクシーは、対異性に限定されたセックスアピールとは全く異なる次元のものなのだ。

 

推しに恥じない自分でいたい、とおもうあまりに、がんばりきれない自分を認められない。がんばりきれない自分のことも、がんばりきれない自分を責めまくってしまう自分のことも、好きになれない自分がきらい。おとこを好きになれない自分がきらい。どうにかしておとこを好きになろうともがいていた自分がきらい。それでいて同性だけを好きになると確信することもできない自分がきらい。矛盾だらけの自分がきらい。

こんな散文を書き殴ってしまうような最悪のコンディションだとしても、「それでも夜は明けるけれど」、やっぱりわたしにとっては「ツラい」。ただ、「憂鬱」を抱えているわたしの「現実」を、「愛していこう」と中島健人さんは歌う。

それいいか、とわたしはおもうのだった。「憂鬱」なりに、セクシーに生きていこうと。