えらぶ覚悟、えらばない覚悟

なにかひとつを選ぶということは、それ以外のすべてを選ばないということだ。


松浦理英子という小説家をあつかった修士論文のある章を、わたしはこんな風に書き始めたのだった。どんなになにげない選択であったとしても、選ばれたものの背後には、無数の選ばれなかったものたちがある。

たとえば、書くことはそういった選択の連続だし(無数のことばのなかから、たったひとつのことばをえらびつづけなければならない)、恋愛は、ひょっとしたらその最たるものだとおもわれるかもしれない(他のすべてのにんげんから、たったひとりの恋する相手を選びとる、選びとらされてしまう)。

もちろん、恋の相手がつねにひとりであるとは限らないし、恋愛は生きるうえで不可欠なものでもない。けれども、恋愛からどんなに遠く離れようとも、選択からは逃げられないんだなあ……というのが、このごろおもうところであって。

 

最初の記事で書いたように、わたしは今年のゴールデンウィーク中島健人さんに、Sexy Zoneにささげた。大学院を修了し、二年ぶりに再就職した年の、初めての連休だった。有給休暇も付与されていなければ、試用期間中で給料も低かった(試用期間が明けても大して上がりはしないけれど)。

コンサートにいかなければ、ともだちとごはんにいけたかもしれないし、家でのんびりひとにすすめられたアニメをみることができたかもしれないし、地元で安く飲むこともできたかもしれない。疲れがとれず連休明けにつらいおもいをすることもなかっただろうし、別の推しの現場に入ることもできただろう。それでもわたしは、それらすべてを切り捨ててでも、Sexy Zoneを、中島健人を選んだ。

中島健人さんは、横浜アリーナで全力のパフォーマンスをみせてくれた。さいこうにセクシーで、さいこうにスウィートで、すでに「きっとこれ以上すきになることはできない」というぐらい敬愛していたはずなのに、気が付いたら「どうしてわたしは中島健人じゃないんだろう」「じぶんが中島健人ではないことがしんどい」とおもいつめるほど愛情が、というより執念が深くなっていた。

わたしの生きる理由も、生きる望みも、生きるたのしみも、すべてが中島健人になった。中島健人に恥じないわたしでいたい。どんなときもセクシーでありたい。

そんな調子だから、当然わたしはじぶんの選択を悔やんではいない。時間も、お金も、体力も、気力も、なくなった。けれども中島健人を選んだわたしはまちがっていなかった、とおもった。

でも、ときどきうんざりしてしまう。ほんとうはすべてを選びたいとおもっている強欲で傲慢なじぶんが、嫌になることがある。

 

たとえば推し。わたしは中島健人のほかにも、いくつかの界隈に推しがいる。中島健人さんと同じ事務所に所属するアイドルにも何人かいるし、若手俳優にも、声優にも、はたまた漫画、アニメ作品、洋画、海外俳優にもいる。

すべての推しにそれぞれすきなところがあり、尊敬するところがあるけれど、全員を同じように愛することはできない。感情的にもそうだし、時間的にも、金銭的にも、体力的にもそうだ。実在する生身のにんげんであるか、そうであるかにかかわらず、すべての推しは唯一無二の、かけがえない存在なのに、わたしはその推したちのあいだに順位をつけてしまっている。歴然と。

そのなかでも中島健人さんは、わたしにとって、もはや「推し」とも言い難いなにか特別な位置を占めているひとなので、そういったもろもろを飛びこえてなににおいてもまず優先される存在、ということになっている。つまり、無条件にわたしは中島健人さんを選んでいる。そのほかのありとあらゆる推しを選ばないことを代償として、中島健人さんひとりを、選んでいる。

そのことが誇らしくもあるし、また、苦しくもある。ほんとうは、推しのすべてと、すべての推しと、全力で関係していきたいから。

 

このことはともだちにも当てはまる。じぶんで言うのもなんだけれど、わたしは、ともだちをめちゃめちゃ選んでいる。

 

「そんなに潔癖に取捨選択しないで、もっと余裕を残しておけばいいのに。」

「選ばないでいる余裕がないのよ。」

「その調子で選び続けて行ったら、最後には何もなくなっちゃうんじゃない?」

(『親指Pの修業時代 上』松浦理英子、1995年、河出書房新社、142頁)

 

ことあるごとに、わたしは上に引いた会話をおもいだす。以前ある同人誌に「別れても友達でいようね」という創作を寄せたことがある。

無粋ではあるけれどざっくり筋を紹介してしまうと、主人公の男性が、親しい同性の友人に「別れよう」と切り出される。友人との別れをきっかけに、「恋人は別れたら友達になれるけど、友達は別れたら何になるの?」と、主人公の男性はひたすら悶々とする。……とまあ、こんなはなしだ。どうしてこんな散文を書いたのかというと、わたし自身、実際にともだちと「別れる」ことがあるから。

別れの理由はさまざまある。たとえば、どちらかの感情が大きくなりすぎてしまい、バランスがとれず一緒にいることがしんどくなるとか。政治的・思想的な立場が相容れない(相容れないことがお互いにとって非常なストレスとなる)とか。恋人・配偶者ができて疎遠になるとか。お金の遣い方がぜんぜん違うとか。あるいはもっと単純に「同担拒否」だったとか(単純とは言ってしまったけれど、深刻なもんだいです。解釈違いの同担より、解釈に理解を示しあえる他担のほうが、一緒にいてこころやすらぐ場合もおおい)。

白か黒か、0か100かしかないわたしは、「これこれこういう理由で、あなたと別れたいとおもっている」と、相手に直接伝えたりもする。とてもじゃないが誠実とはいえない振る舞い方をしてしまう場合もある。先方は納得することもあるし、しないこともある。


大学院を修了して、再び週5日、フルタイムで働くようになって、改めて痛感した。じぶんの自由な時間を、お金を、体力を、感情を、他人にささげるのは、とてつもなくハードルの高い行いだ。かぎられたリソースを、このひとのためになら使ってもいい、とおもえること。そうおもえるような相手と、出会えること。出会えたこと。それはなんだかものすごい事態なんじゃないか。「ともだち」っていうのはこういう相手のことをいうんだと、いまさらながらに打ちのめされた。

だからますます、「取捨選択」はエスカレートしていく。

ほんとうは、すきなともだちみんなと美味しいごはんを食べたいし、すきなともだちみんなと旅行したいし、すきなともだちみんなとディズニーにいきたい。でも、そんなことはどだい無理だ。わたしはひとりしかいないし、自由にできるお金も、時間も、体力も、感情も、かぎられている。

だからわたしは、ともだちにも順位をつけてしまう。このひととはふたりで旅行できる。このひととはふたりでディズニーにいける。このひととはふたりで飲みにいける。このひととはふたりでランチにいける。このひととは政治のはなしができる。このひととは文学のはなしができる。このひととは趣味のはなしができる。このひととは……と、いうように。

そして最終的に、「このひととできることで残っているのは、別れることだけだ」というと相手と、別れることになる。潔癖で、傲慢で、身勝手で、さいあくだなあ~と、われながらおもう。「別れた相手」のことを、別れたあとも未練がましくすきだったりするから。

 

誰かを、なにかを選ばないという覚悟もないくせして、誰かを、なにかを無責任に選んでしまうのが、わたしなのだとおもう。この「選ぶ」という行為はとても難しくて、どこまでが自分の意志なのか、判然としないところがある。

特に中島健人さんは、わたしが主体的に「選んだ」というよりも、「選ばされてしまった」といった方が近い存在。推すことを、愛することを命じられたような感覚があるのだ。もちろん、だとしてもその命令に従うことを決めたのはわたしの意志だけれど(ともだちについても、同じことが言える。まるでなにかにひきつけられ、呼び寄せられたように、関係をしてしまう相手というのはいる)。

ここまでだらだらと書いてきて、ぜんぶ、当たり前のことだよなあという気持ちもある。同時にふたつ以上の音を発することができないように、同時にふたつ以上のことばを書きつけることができないように、選択はつねに別れをはらむものだ。選ばれなかったものたちとの別れ。なにかを選ぶということはそれ以外のすべてを選ばないことだし、逆に言えば、すべてを選ぼうとすることは、なにひとつ選ばないことに他ならないのだろう。選択はしんどい。

 

けれども、と考えてみる。中島健人さんのことを。わたしがしんどいおもいをして選びとった中島健人さんというきらめきは、けっしてわたしを選ぶことがない。中島健人さんは、ひとりひとりのファン全員を選ぶかわりに、そのなかの誰かひとりを特別に選んだりしない。それはわたしのようなファンにとっておおきな救いだ。中島健人になりたいとおもうのも、ひょっとすると、「すべてを選びたい(=なにひとつ選びたくない)」という欲望のあらわれなのかも、と感じたりもする。

真摯に、そしてセクシーに、すきなひとたちと関係していきたいなあ。