「レズなのにジャニーズが好きなの?」

高校生のころ、学校にすきなおんなのこがいた。わたしたちはお互いのことを名字で呼び合っていたので、ここでは仮にスズキとしておこう。

スズキとは一度も同じクラスになったことがなかった。話すようになったきっかけもろくに覚えていない。たぶん、当時仲が良かったともだちの仲が良かったともだちの仲が良かったともだち、くらいのぼんやりしたつながりで、気が付いたら顔見知りになっていたんだとおもう。スズキは人懐っこく、笑顔がとびきり明るくて、屈託のない性格をしていた。

いや、ほんとうにそうだったのかは自信がない。なにしろわたしはスズキのことをほとんど知らなかったから。

スズキとは、当時使っていたことばでいうと「体の関係」だった。廊下ですれ違いざまに「今日もでかいな!」と胸を揉まれたり、「いいにおいがする」と抱き締められたり、意味もなく腕を組んで歩いたりした。

それでいて、ふたりで遊びにいったり、夜中に長電話をしたりするような付き合いはまるでない。いまおもいかえしても不思議だけれど、スズキとはそういう距離感でいるのが心地良かった。クラスが違うし、わざわざ会いに行くこともしなかったから、毎日話せるとは限らない。スズキに会えることを期待していたわけでもない。けれども、廊下で顔をみかけたらうれしかった。体育はしぬほどきらいだったけれど、スズキのクラスと合同で授業をする日だけは、とてもたのしかった。

いまでも、忘れられないできごとがある。

スズキを含め、当時仲の良かったともだち数人と築地に出かけた。確かクリスマス間近の時期だったとおもう。市場で海鮮丼を食した帰り、銀座に寄ってカラオケをしたのだけれど、その移動時間だったか。

わたしたちは駅かどこかのエスカレーターに並んで乗っていた。わたしが一番うしろで、その前がスズキだ。

前後の文脈はなにひとつおもいだせない。ただ鮮明に覚えているのは、不意にスズキが振り返って、わたしの頬にキスをしたこと。

当時のわたしたちは確かに「体の関係」を結んでいたけれど、そうはいっても、さすがにキスをしたことはなかった。だからたとえ頬にであっても、わたしは驚いた。そしてどきどきが止まらなかった。いくらともだちとの距離感が近いスズキでも、誰彼構わず頬にキスをすることはないんじゃないか。ひょっとするとわたしは、スズキにとって特別な相手なんじゃないか。

そのできごと以来、わたしは悶々といろいろなことを考えた。けれども結局、スズキ本人には何も言うことができず、わたしたちの関係は卒業まで何も変わらなかった。ときどき廊下でばったり顔をあわせては、くだらないことで笑い、ちょっと行き過ぎたスキンシップをして、またねと別れる。だから当然、卒業したらつながりは呆気なく切れた。スズキが今どこで何をしているのか、わたしは何も知らない。

当時のわたしは、mixiで知り合ったおたくともだちと「好きな男ができない」と嘆きあったり、なりきりチャット(通称なりチャ)で知り合った年上の女性に恋をして、バイト代を貯めて福岡に飛んだりしていた。初恋は幼稚園のときで、相手は同じ組にいた色白で華奢な男の子だったけれど、初めて交際した相手は女性で(福岡のひととは別人)、リズリサのお洋服と「おおきく振りかぶって」の阿部隆也がすきなひとだった。

要するに、いわば「異性との経験はないけれど、同性との経験はある」状態だったのだ。

 

わたしはこれまで自分が「同性を好きであること」で悩んだことはなかった。けれども、「異性を好きになれないこと」「異性との経験がないこと」では、ものすごく悩んできた。悩んできたというより、苦しんできた。

当時足繁く通っていた2ちゃんねるの「喪女板」のとあるスレッドでは、「男にモテないから女に走る喪女」の存在が取沙汰されており、わたしは泣きながらそのスレッドを読んだ。しんどくてたまらないのに、ひとつひとつの書き込みを細かい言い回しまで覚えてしまうくらいに読み込んだ。

また、「このひとと一緒にしにたい」とまでおもいつめていた恋の相手には、「きみの恋愛感情は気の迷いだとおもう。男と付き合ってみたらわかるよ」というようなことを頻繁に言われた。当時すきだったその女性は、同性とも異性とも交際したことがあるというひとだったから、経験者にそんな言い方をされてしまっては何も言い返せない。まだ二十歳にもなっていなかった当時のわたしは、ただただ悔しくて彼女のジュースを黙って勝手に飲み干したりしていた。

男を好きになって、男と付き合わなければ。はやくこの「処女」という重い枷を外してしまいたい。

ある時期までのわたしは、そんな強迫観念にとらわれていた。いま思えば、異性との経験がなければ女性として「欠陥品」であるというような文化そのものがおかしいのだし、同性との恋愛をまっとうな経験としてカウントしない空気もホモフォビックで許しがたいものだ。もちろん、そもそも恋愛をしなければ「一人前のにんげん」として認められない雰囲気それ自体が間違ってはいるのだけれど。

結果的に、わたしは異性と交際することになった。すてきな思い出も、おぞましい出来事も、たくさんあった。交際していたときは、ほんとうに相手のことをすきですきでしょうがなかった。しかし、あるときわたしはつらくなってしまったのだった。じぶんが「女」としてしか、みられていないことが。

わたしは交際相手の性欲を徐々に疎ましく、そして恐ろしく感じるようになった。会えば必ずセックスをしなければならないことが、はっきりと負担になってきた。わたしがなりたかったのは、「彼女」でも、ましてや「妻」なんかでもなく、「ライバル」「親友」「戦友」「シンメ」……そういったことばで名指される何かだった。ながいながい時間をかけてようやく、じぶんの気持ちをことばにすることができるようになった。

それからほんとうにいろいろなことがあって、相手とは別れた。もちろん、わたしの理想とするような関係性を築いている異性のカップルは世界のどこかにいるかもしれないし、異性と対等な関係をむすぶのは土台無理なはなしだと考えているわけでもない。ただ、わたしたちにそれはできなかったし、なおかつ、わたしはじぶんが「パートナー」として異性を選びたいわけではないのだ、ということに気づきつつあった。

 

男を好きにならなければならない。セクシュアリティを学ぶ、学ぼうとしている身なのだから、彼らがヘテロセクシュアルというだけで、その欲望を否定してはいけない。長らくじぶん自身を苦しめてきた抑圧から、さいきんやっと、自由になれた感覚がある。ひとをセクシュアリティによって裁くことがあってはならないけれど、じぶんにしんどい思いをさせるものを、無理に好きになろうとする必要はないだろう。

「男と付き合ってきたわたしなんかがレズビアンと名乗ることはできない」というような後ろめたさも感じてきたけれど、セクシュアリティは流動的なものだ。ひとは生まれてから死ぬまで同じセクシュアリティであるとは限らないのだから、わたしがじぶんを「レズビアン」だとおもうなら、わたしは「レズビアン」だろう。やっと、ほんとうにやっと、そんな風に考えることができるようになってきた。

けれど、新たな屈託も生まれる。

「レズなのにジャニーズが好きなの?」と、ひとから聞かれたことがある(ちなみにわたしは「レズ」とひとに呼びかけるひとのことがあまり好きではない)。別のひとから、「ジャニーズが好きならおとこが好きなんじゃないの?」ということばを投げかけられたこともある。

確かに、恋愛や性愛の対象が女性であるなら、女性のアイドルをすきでいた方がはるかに「わかりやすい」かもしれない。でも、ひとの欲望がつねに「わかりやすい」ものであるとは限らないだろう。そんなのは当たり前のことじゃないか。仮にレズビアンで女性のアイドルを推しているひとたちがいたとしても、その欲望は個々に違って複雑な、ややこしいものである可能性もある。

わたしは、アイドルに足していわゆる「ガチ恋」「リア恋」と呼ばれるような感情を抱くことをぜったいに否定したくないとおもう(その点、わたしの希望である中島健人さんはすばらしい考えをお持ちなのだが、詳しくは長くなるのでまたの機会に譲りたい)し、じぶん自身その手の感情を推しに抱いたことはある。わたしの場合は「恋人になりたい」じゃなく、「告白してフラれたい」とか「推しがさみしいとき二番目くらいに呼び出される気軽で、でもちょっとウェットな関係になりたい」とか、そういう類のものにはなってくるけれど。

要は何が言いたいかというと、推しへ抱く感情はほんとうに多様で、それが常に「恋愛感情」であるとは限らない、ということ。

 

以前参加していた同人誌でも書いたことがあるのだけれど、わたしはいまの推しと「一緒に仕事がしたい」とおもっている。推しのとなりに立ちたい。推しがしんどいときには推しの分までわたしが踊るし、わたしがしんどくなったら、推しにはわたしを信じて歌ってほしい。向かい合わせで手を差し伸べる関係じゃなく、お互いを信頼して、背中を預けられる関係になりたい。

一介の凡人が何を言っているんだとおもわれるかもしれない。むしろじぶんでもそうおもう。けれども、これはわたしにとって真実な感情だ。推しと仕事がしたい、推しのシンメになりたい、もはや推し自身になりたい。

そういう風に推しをみているとき、わたしはじぶんが「女」であることを忘れている。わたしはジャニーズ――というより中島健人が好きなので、いまは中島健人のはなししかできれないけれど、これはひょっとしたら他のアイドルや、タレントにも当てはまるだろうか。

ケンティー――アイドルとしての中島健人――は、ファンであるわたしにありったけの愛のことばを、ありったけの感情をささげてくれる。ケンティーがあまりにもおおっぴらに、あまりにもあけすけに愛を語ってくれるものだから、その愛に、その感情に、わたしも安心して溺れることができる。しかしケンティーは、わたしに何の見返りも求めない。「女」であることも、「女らしく」あることも、もっと言ってしまえば「男を好きである」ことも。

だからわたしはケンティーが好きだ。彼のことは、臆せず好きだと言える。このうえなくスウィートな顔立ちも、セクシーな体つきも(最近ますますお痩せになって心配は尽きないが)、パフォーマンスにこだわりすぎる危うい情熱も、隙のないお歌もダンスも、何もかもが好きなんである。わたしが「女」だからじゃない。むしろそれは、ケンティーがわたしに「女であれ」と強要しないからだ。「女」としての感情的、あるいは肉体的な奉仕を一切求めずに、ただただ好きでいることを許してくれるから。

わたしはしばしばケンティーになりたいとおもう。いや、しばしばというのはうそだ。毎日毎時間毎分毎秒、おもっている。ケンティーのシンメになりたいともおもう。同性の「パートナー」として、背中を預けられる存在になりたい。しかしだからといって、わたしは「男」になりたいわけじゃない。あくまでも、同性として、推しの隣に立ちたかったと願うだけだ。

ケンティーだけじゃない。好ましいと感じる異性の友人がいると、「わたしが男だったらよかったのに」とおもうことがある。「わたしが男だったら、屈託なくこのひとを抱きしめることができたかもしれないのにな」と。けれどもわたしが男だったら、そういった友人たちと親しくなることはなかったかもしれないし、彼らは男のわたしに抱きしめられることを望まないかもしれない。

わたしはとにかく、同性同士の親密なつながりにこだわりがあるタイプのにんげんなのだ。「にんげんとにんげんの親密さに、性別もくそもあるか」と、おもうひとがいるのはわかる。わたしは強固な「ヘテロフォビア」を抱えているんだろうし、すべてのにんげんを「男」か「女」に割り振る暴力には抗うつもりでいて、性別二元論の重力から逃げ切ることはできていない。

でも、とおもう。これは単なるルサンチマンかもしれないけれど、「一対一の男女で番うことが当たり前」という異性愛の覇権がまったく揺るがされていないこの状況で、「みんな違ってみんないい」とか「愛は愛じゃん、性別なんて関係ない」とか言ったって、単に現状を肯定することにしかつながらないんじゃないの、と。

 

わたしはたくさん間違っているとおもう。たくさん誰かを傷つけてもいるとおもう。決して居直ってはいけないとおもう。けれども、わたしのこだわりを、わたしの欲望を、これ以上わたし自身が殺さないように、書き残しておこうとおもう。