推しのいない人生

しばしばともだちから「なめこちゃんは好きなものがあっていいね」というようなことを、言われたりする。

きのうは都内でもっともはやい時期に開催されることで有名らしい某所の花火大会に、ともだちと出かけてきた。ともだちに着付けてもらった浴衣を着て、有料の特等席で間近から見上げる花火は、おもっていた以上なんだかまがまがしく、腹の底に響くドン、ドン、という音も、慣れるまではとてもおそろしかった。

そんな風におっかなびっくり花火を見上げながら、職場への不満、親族への屈託、推しの仕事を推せないはなしなどを、のべつまくなしにしゃべり立ててしまった。

(推しの仕事を推せないはなしについては、以下の記事をご参照あれ。) 

 

lvknty133.hatenablog.com

 

ひとしきり毒を吐き出してふと我に返ったわたしが、「重たいはなしばっかごめん、疲れたよね」と謝ると、ともだちはなんでもないことのように「大丈夫、疲れるほど真剣に聞いてないよ」と言った。その受け答えにわたしはほっとして、ともだちと顔を見合わせて笑った。まるっきり聞いていないわけではないけれど、わがことのようにストレスを感じるほど引き受けているわけでもない、というともだちのスタンスが、キャパオーバーすれすれまで鬱屈を抱えていたわたしにとっては非常にありがたかった。そして、そのことをことばにせずともお互いに了解して、笑い飛ばせる距離感の心地よさに、何より救われたのだった。

ひょろひょろと空に上がり、どかんどかんと弾ける花火の音にかき消されて、わたしたちはお互いの言ったことを半分くらいしか聞き取れていなかったかもしれない。けれどもたぶん、あのときともだちは、確かこんなようなことも口にしていた。「なめこちゃんには好きなものがあっていいね」と。

 

このともだちに限らず、わたしはこの手のことをよく言われてきた。物心ついたときから、気づけば「推し」のいる生活を送っていたので(当時そういうことばはまだなかったけれど)、「熱中できるものがあっていいね」「そんなに何かを好きになることができるなんてすごいね」と、ときには賞賛のニュアンスとともに、ときには侮蔑のニュアンスとともに、さまざまな場面で「推し」に対する感情の大きさを、重さを、深さを、ひとに評価されてきた(よくもわるくも、ということだけれど)。

正直に言えば、「確かに」とおもわないこともない。おそらくわたしが四半世紀ばかり生きてきたなかでもっとも長い年月をかけて推しているジャニーズ事務所、においてもとりわけ、ここ数年来もっぱらわたしの生活を支えてくれている中島健人さんに対しては、「好き」とか「愛」とかでは片付けられないような複雑で込み入った感情や欲望を抱いており、中島健人さんがいなければ、わたしはとうにつぶれていたとおもう。生きる理由も、生きる希望も、生きる目的も、すべてが中島健人さんなのだ。

中島健人さんのためにがんばる――と、いうよりも、中島健人さんに恥じないにんげんでありたい、という一心で、わたしは生きている。

花火大会をいっしょにみにいったともだちにも、はなしの行きがかり上熱弁をふるってしまったのだけれど、わたしにとって中島健人さんは「こうなりたかったじぶん」「こうありたかったじぶん」であり、ひとつの生命体として、理想的な、完璧なありようだとおもっている。容姿も、パフォーマンスも、内面も、ことばも。(ここでいう「完璧」というのは、非の打ち所がなく、欠点がひとつもないという意味ではなくて、欠点や弱点も含めてすべてがわたしにとって愛おしく慕わしい、という意味だ。)

けれども、わたしが中島健人になれないことはいまさらわかりきっているから、せめて、中島健人に恥じないにんげんでありたい。こんなことはぜったいにありえないけれど、いつかわたしが文芸誌でデビューしたら、たとえばダ・ヴィンチなんかで中島健人さんと対談して、「あなたがいたからここまで来られたんです」と感謝を伝えたい、そのためには中島健人さんと相対していられるぐらい、立派なじぶんでいたい。こんなことを考えている割に、認知されたい、接触したい、ファンサがほしいという類の欲望を持っているわけではないから、我ながらややこしいとはおもうのだけれど。

 

それが現実に生身のにくたいをもって実在している対象であるかいなかを問わず、なにかしらの「推し」とともに生きているひとなら、こういった感情や欲望や祈りや希望を、少なからず胸に秘めているのではないだろうか。もちろん、質的にはそれぞれ異なるものだろうけれど、「推し」に生かされている、生きるのを手伝ってもらっているというひとは、きっと少なくない。

でも、当たり前ながら、「推し」がいないひとだってたくさんいる。

わたしに「好きなものがあっていいね」と言ったともだちは、たぶんみんな「推し」がいなかった。趣味らしい趣味もない、とじぶんで言っているひともいた。「推しってなんなの? どうやって見つけるの?」と聞かれたこともあった。けれどもわたしには「推しは見つけるものではない、向こうから飛び込んでくるものだ。」と、「恋はするものじゃない、落ちるものだ」ばりのトンチキ回答をすることしかできず、ともだちを困惑させるばかりだった。と、おもう。

もし、中島健人さんと出会っていなかったら。あるいは、そのほか各界の「推し」と出会っていなかったら。そもそもわたしに誰かを「推す」という感覚がなかったら。そんな風に想像してみると、ちょっとぞっとする。もし「推し」がいなかったら、なんのために、なにを励みに、生きていけばいいのだろう。「推し」のいない人生なんて、中島健人さんのいない人生なんて、考えられない。

そうおもう一方で、わたしは「推し」のいない人生を「つまらない」と感じてしまっているんじゃないかと、じぶんに嫌気がさす。少なくともわたしにとってわたしの人生は、わたしの生活は、中島健人さんあってのものだけれど、「推し」がいない(あるいは「趣味」や「生きがい」のない)他人の人生をどこかで見下してしまっていたんじゃないか、と。

 

趣味を同じくするひとたちとのコミュニティにいると、わたしはときどき「推し」を推すことを強いられているような感覚に陥ってしまう。それはたとえば、「恋愛」にまつわるプレッシャーを感じることと似ている(まったく同じではないけれど)。恋をしなければならない、好きなひとがいないのはおかしい、人生のほんとうの楽しみを知らない――といった、「恋愛するのが当たり前」という価値観は、この社会のいたるところにまだまだはびこっていて、もちろんそれと「推し」を等価に考えることは適切ではないけれど、わたしはじぶんに「推し」がいることがしんどくなったりも、する。

何枚CDを買ったかとか。テレビ番組をみたかどうかとか。コンサートに何回通ったかとか。推しのどんなところがどれくらい好きかとか。

そういったもろもろのことは、わたしにとって「当たり前」ではない。とても消耗することだ。お金に余裕があるわけじゃないし、日本のテレビ番組はそもそも好きじゃない。たとえ推しが出ていたとしても、あきらかに地雷だとわかるようなバラエティ番組などは極力見ない、というか見られない。そして推しに対する感情を誰かと共有することも、どちらかというと得意ではない。TwitterをはじめとするSNS掲示板などで、誰もに伝わるような経済性の高いことばを使って、推しへの感情を書きあらわすことができない。わたしの感情は、わたしだけのものだからだ。

そして何より、じぶんの生活に究極的に余裕がなくなると、わたしは推しのとうとさを受けとめきれなくなる。推しの情報にふれると叫びだしそうになる。歌い踊っている推しをみるとテレビの液晶画面を割りそうになってしまう。じぶんの「解釈」と少しでもズレのある言動を推しがすると、「わたしの好きな推しはこんなひとじゃない!」と「推しについて推しと解釈違い」を起こし、情緒がとことん不安定になる。

 

きっと、「推し」がいる多くのひとたちに少なからず屈託はあるだろう。けれども、そういったコミュニティに入ろうとすると、わたしはじぶんがバラバラになりそうなぐらいしんどいおもいをする。

「推し」を推すことは当たり前じゃない。推しと出会えた運、推しを推すだけの健康、推しのコンテンツを買うための金銭、推しの情報にふれるための環境、推しを推すに足る時間など、さまざまな条件が重なってやっと「推し」を推せる。そんなことを考えているくせして、わたしは、「推し」のいないひとたちを、どこかで哀れんでしまっていたのではないだろうか。端的に言って最低だし、最悪だ。

そんなこんなで、わたしにはいわゆるおたくのともだちが少ない。というか、ほとんどいない。

「●●好きなやつ大体ともだち!」みたいな言い方があるけれど、わたしの場合は逆で、「ジャニーズ好きなやつ大体敵!」といっても言いぐらい、ちょっと前までは全力で警戒をしていた。ジャニーズはファンの規模がおおきい分、かえって自由な姿勢で「推し」を推していけるのだ、と肌で感じるようになったのはここ数年のことで、それまではジャニーズが好きなことを後ろめたくおもっていたし、恥ずかしくもおもっていた。今はこうしてTwitterやブログ、対面でも、ジャニーズを好きな理由、ジャニーズの好きなところを堂々とはなすことができるようになって、ほんとうに良かった、とおもうけれど。

「推し」がいることは当たり前じゃない――誰もが「恋」をするとは限らないように。

 

ところで、中島健人さんが所属するSexy Zoneというグループのある楽曲に、こんなフレーズがある。

「普通に就職して だれかと結婚して 普通に帰って 普通に眠る まぁいっか、またまぁいっか なんてねなんてね 言うね」

薔薇を背負ってデビューしたジャニーズ事務所きってのキラキラアイドルであるSexy Zoneが「普通」を歌っていることが、すごい。しかも、この歌の作詞にはメンバーの菊池風磨さんも参加している。

まず、彼らの思う「普通」に「だれかと結婚」することが入っている点に、わたしは複雑な感情を抱いた。自由に恋愛できない(とされている)アイドルである彼らが、「だれかと結婚」する「普通」を歌うこと。にもかかわらず、「だれかと結婚」することを「普通」であると彼らが思っているらしいこと。さらに、このパートを歌っているのがじぶんが「普通」であることに悩んでいた佐藤勝利さんであること。

この曲がリリースされたとき、上記の理由でわたしは煩悶した。いまでもそれが解決したわけではないし、「結婚」=「普通」というこの曲で提示された価値観も、いつか彼らのパフォーマンスのなかで更新されてほしいとおもっている。でも、ひいき目を承知で言えば、この曲がすばらしいのは、Sexy Zoneが「普通」を肯定しているからだ。

たとえばわたしには中島健人さんがいて、小説を、なにかしらの散文を書いていきたいというこころざしもある。こころざしなんていうと大袈裟だけれど、生きる糧となる仕事以外に、目標とするなにかしらがあるということだ。わたしにとってそれらは生きることとあまりにも結びついているから、中島健人さんのとうとさを受け止めきれないとき、文学に立ち向かうことができないとき、強烈な自己嫌悪に駆られてしまう。「無為に生きているなあ」とひたすら脱力してしまう。

でも、別にそういうものがなくったっていいのだとおもう。

 

恋愛に興味がなくても、推しがいなくても、これといった趣味がなくても、生きる、生活をするということは、それだけでとてつもないことなのだ。

恥ずかしながら、わたしなんかはまだ、いつかじぶんが何者かになれるのではないか、とおもっている節があるけれど、「推し」も「趣味」もないというわたしのともだちは、じぶんが何者にもなれないことを重々承知しているらしい。そのうえで、毎日正気をたもって職場におもむき、労働をし、じぶんを養っている。途方もないことだ。わたしは、彼女たちを尊敬している。

……一方で、自分勝手な屈託もある。きょうこの文章でふれたともだちのなかには、異性の恋人がいたり、結婚をしたりしているひとたちもいる。そのこと自体にすねているわけではないのだけれど(というのは虚勢でほんとうはがっつりふてくされているものの)、彼女たちとの話題はしぜんと結婚や恋愛、生活に関することがらが多くなってくる。

これはまちがいなく被害妄想だとおもう。でも、彼女たちの目に、わたしは「年甲斐もなく若いアイドルにうつつを抜かしたり、なんだかわけのわからない夢を追いかけて大学院なんかにいった残念なやつ」に映っているのではないか、と感じてしまうことがある。

残念でけっこう! わたしはわたしの好きなことをしつづけるし、わたしはわたしの好きなわたしでいつづけたい。でもやっぱりさみしいものはさみしいのだ。わたしはいつまでも中高生のときみたいに、マックで延々と学校の悪口を言ったり、お互いの家に遊びにいって3時間くらい黙々とスマブラで対戦したり、『東京タワー』の潤にキャーキャー言い合ったり、意味のわからない造語をつくって交換日記を書いたりしていたい。

 

「推し」がいようが、いなかろうが、「推し」が同じだろうが、違かろうが、ほんとうにすきなひとたちと、ほんとうにすきなことだけを、していけたらいいんだけれど。