それでも夜は明けるけれど わたしにとってはツラいんだよな

そこそこ付き合いの長いおんなともだちに「あなたと恋人になりたい」と言われた。わたしは困った。その子がおんなのこだからとか、その子のことを意識していなかったからとか、そういう理由で困ったのではない。むしろわたしはその子のことがすきだった。その子とどうにかなれればいいな、とおもったことも一度や二度ではなかった。だからこそ、困り果ててしまった。「すき」と言われた瞬間、わたしはおおきな冷気のかたまりを飲み下したような気分になった。つまり端的に表現すると、わたしは冷めた。一瞬で。その後彼女と会うのが途端に億劫になって、連絡もだんだん返せなくなった。

最終的に「別れよう」と切り出したのは彼女のほうだった。交際していないのに別れるも何もないじゃないか、とおもわれるかもしれないけれど、わたしがともだち関係においても「別れる制度」を導入していることは以前から彼女にも伝えていたので、彼女は律儀にも、わたしの流儀に則って別れるための手続きを踏んでくれたのだ。

彼女と別れてから、しばし呆然としてしまった。薄々感づいていたことではあるけれど、わたしはやっぱりダメだった、とおもった。何がダメかというと、ひとにすかれるのがダメなのだ。

「恋愛」的なニュアンスで、ひとに好意を寄せられることがめっぽう苦手――というより、向いていない。じぶんが誰かを恋愛的な意味ですきになることはあるけれど、誰かに恋愛的な意味ですかれることには嫌悪感を抱いてしまう。それまでどんなに魅力的に見えていた相手だったとしても、じぶんに対して恋愛感情のようなものを向けている、とわかってしまった瞬間、別人のように感じてしまう。すべてが色あせて輝きをうしない、べたべたと肌にまとわりついてくる粘り気のつよい液体に沈められたような、居心地の悪さ。そして息苦しさ。

ひとにすかれるのはしんどい。

「じぶんを愛せないと誰のことも愛せない」とか、「振り向かない相手ばかりをすきになるのはじぶんを愛せていないから」とか、そういう余計なことを言ってくるやからというのはどこにでもいて、かつて幾分いたいけな若者だったわたしはそれらのことばを真に受けて、「そうかあ、わたしはじぶんを満足に愛せていないのだなあ」とか、「じぶんを愛せないじぶんのことを誰かに愛してもらったら、わたしもじぶんを愛せるようになるのかなあ」とか、RADWIMPSの歌詞ばりに恥ずかしいことを素直に考えたりもしていた。いまおもえば、目が覚めてよかったの一言に尽きる。

四半世紀とちょっと生きてきて、わたしもすこしはじぶんのことをわかるようになってきた(まだまだ得体の知れないところも多いけれど)。わたしは別にじぶんのことが嫌いではない。ときどき嫌になることはあるものの、致命的に憎んでいるというほどではないし、「じぶんのこういうところはかわいい」と気に入っている部分も多少はある。鏡を覗きこむたびに「げっ、おもったよりブサイクだった」とイマジナリーなわたしと現実のわたしの乖離にうんざりすることはあっても、深刻におもいつめるようなコンプレックスはない(十代のころとか、容姿コンプレックスでしにそうになっていた時期もあったけれど)。

ただ、むかしからずっと、振り向かない相手ばかりをすきになるという癖は変わっていない。でもわたしは「じぶんを愛せない」わけじゃないし、「誰のことも愛せない」わけでもない。じぶんのことはほどほどにすきだし、ともだちを愛しているし、推したちのひとりひとりを――とりわけ中島健人さんのことを愛している。

そうおもえるようになって、またひとつ、この身にかけられた呪いがとけたのかもしれない。

わたしはちょっと酸味のつよすぎるキレートレモンサワーを飲みながら、ルームメイトに教えてもらった「リスロマンティック」というセクシュアリティが、ひょっとするとじぶんのありようを説明するにはもっとも便利なことばなのかもしれない、とぼんやり考えたり、けれども「リスロマンティック」という概念だけではひろいきれない欲望がきざすことも確かだと、であるならばじぶんはいったい何なのかと、そもそもじぶんが何なのかをどうして決めなければならなくて、どうして決めたくなってしまうのかと、うだうだ自問自答を繰り返したりしていた。

そんなとき、中島健人さんがテレビにあらわれた。

ミュージックステーションの特番が放送されることはあらかじめ知っていて、自宅のテレビでもばっちり録画予約の設定をしていた。けれども、今回の特番は10時間という長丁場(しかも例によって生放送)で、中島健人さんがどのタイミングで登場するのか、わたしは無論知らなかった。要するに、油断していたのだった。

自宅以外の場所で不意につけたテレビ、そこに映っている中島健人さん。いまわたしがテレビを見ているのと同じ時刻に、同じTokyoのどこかで(彼のソロ曲にもじってI'm in Tokyo now.だけどYou're too far away from me nowだとわたしはおもう)、テレビ朝日のスタジオに鎮座ましましている中島健人さん。

まず動悸がした。次に涙が出てきた。

曲の出番のまえのトークコーナーで、ジャニーズWEST重岡大毅さんとじゃれあっている場面からもう耐えられなかった。Sexy ZoneA.B.C-ZジャニーズWESTと3グループがいて、各グループの交流について聞かれているのに、ジャニーズWEST重岡大毅という個人を狙い撃ちして「ごはんに来てくれない、親友なのにツレない」とのたまう中島健人さん。それにちょっぴりはにかんだような笑顔で応対する重岡大毅さん。なんだこれは。全国にお届けされる生放送でなんてものを流してくれるんだ、とわたしは早くも感極まっていた。重岡大毅さんと中島健人さんは、水と油みたいに一見すると真逆のタイプのアイドルのようでいて、核となる部分に秘めている意識や情熱や技術に関しては、とてもよく似たところのある二人、だとおもう。その二人の友情を数年前から(勝手に)見守っているわたしの胸は、はりそけそうだった。

そればかりではない。

トークのあとに続いたジャニーズWESTのパフォーマンスも、A.B.C-Zのパフォーマンスももちろんすばらしかったのだけれど、やっぱりわたしの情緒がもっとも揺さぶられたのは、Sexy Zone「ぎゅっと」。

このブログでも「ぎゅっと」という歌のことは何度も書いているような気がするけれど、先に書いたような理由で――すきなともだちをひとりうしなってしまったことで落ち込んでいたわたしには、爪の先で容赦なく傷口をえぐられたあと、そっと消毒液を塗りこまれるような効果があった。

「ぎゅっと」の序盤には、こんな歌詞がある。

「普通に就職してだれかと結婚して 普通に帰って普通に眠る」

「だれかと結婚」するという「普通」が、「だれかと結婚」することが「普通」ではないアイドルによって歌われているのだ。「だれかと結婚」することを「普通」として、「だれかと結婚」しないことを「普通」ではないこととして捉える社会に憤りを感じているわたしは、このフレーズを聞くたびに動揺してしまう。社会への怒りややるせなさはもちろんだけれど、おおっぴらには自由に「恋愛」することすらままならないSexy Zoneが、そんな「普通」を歌うことに対する切なさとかなしさ。そして、Sexy Zoneが歌う「普通」の範疇からはみ出しているじぶんに対する情けなさと恥ずかしさ。

さみしいな、とわたしはおもう。

アイドルのファン――アイドルの歌を聞いていると想定される層の「普通」に、まちがいなくわたしは入っていない。そしてその「普通」に、アイドル自身も入ることはできない(彼らがアイドルである以上)。さらにそれらの屈託と関係がないようであるような次元のはなしとして、わたしはまたともだちをうしなってしまった。じぶんの感情をコントロールできない状態で、他人と親密な関係を築こうとしたじぶんに非があることはあきらかだけれど――だとしても、さみしいものはさみしい。

間奏のあいだに「おじいちゃんおばあちゃん、セクシーサンキュー」と言う中島健人さんはさいこうにチャーミングで、わたしは心臓をそれこそ「ぎゅっと」掴まれたようになってしまった。中島健人さんはきょうもこの上なく愛らしく、しぐさも声もすべてがスウィートで非の打ちどころがなかった。なのにわたしはツラくなってしまった。じぶんが「おばあちゃん」になっても、たぶん隣には誰もいない。生殖したくない。というかそもそも「おばあちゃん」になるまで生きていたくない。少なくとも中島健人さんよりはやくしにたい。中島健人さんのいない世界に生きていたくない。そんなことどもがいちどきに脳裏を駆け抜けていった。

厳密に言うと、ひとりがさみしいというのでも、「普通」になれないのがさみしいというのでも、すきになってくれたひとをすきになれないことがさみしいというのでも、ない。どうしてさみしいのか、どんなふうにさみしいのか、何をどうしたらさみしくなくなるのか。一切わからない。わからないけれど、ただただ痛烈にさみしい。

きのう久しぶりに読み返しただいすきな小説に、こんな一説がある。

「淋しさはたぶん人間の抱える根元的なもので、聡のせいではないのだろう。自分一人が対処すべきもので、誰かに――たとえ夫にでも――救ってもらえる類のものではないのだろう。」

「聡」というのは語り手の女性の夫の名。「普通」に「だれかと結婚」していても拭えないさみしさを抱えている夫婦ふたりが、それぞれに違う相手と恋をする『スイートリトルライズ』というこの作品は、正直に言って小説としてはあらが目立つ。稚拙なところもある。けれども、ふわふわした現実味のなさと、笑っちゃうような俗っぽさのバランスが絶妙で、嘘みたいに「スイート」な読後感がやみつきになってしまうのだった。上にひいたのも、かれこれ10年近く反芻しているフレーズだ。

にんげんはさみしい。あるときからわたしが漠然と、けれども痛切に感じてきたさみしさを、ここまで的確に言いあらわしているせりふは他になかった。この小説は、わたしを安堵させる――とともに、なおいっそうさみしくさせる。



すでに紹介したとおりだけれど、この小説でさみしさを語るひとたちは、異性と「結婚」をして、また別の異性と「恋」をしている。わたしはこのひとたちじゃないし、このひとたちもわたしじゃない。さみしさの理由も対処法もわからないと言ったばかりだけれど、わたしのさみしさの一部は、間違いなくこのことに関わっているのだろう。

異性と恋をすること、異性と婚姻関係をむすぶことが「普通」であるとおもわれていること。

かといって、これもすでに書いたことだけれど、同性とならつつがなく恋ができるかというと、決してそうではないのだ。きっと誰しもそうだけれど、わたしの欲望は複雑で、こんがらがっていて、矛盾だらけで、ひとを踏みにじる(可能性が高い)。こんなふうに考えていると、生きているのがあっさりといやになってしまう。あしたから仕事がはじまるし、しばらく定時には上がれない日々がつづく。

ああ、もうなんもかもやんなっちゃったな、とじわじわ膿を吐きながら広がる傷口に、中島健人さんは、そしてSexy Zoneは、そっと消毒液を吹きかけてくれる。「結婚」や「普通」をめぐって散々わたしを切りつけたその口で、彼らはこんなことを言うのだ。

それでも夜は明けるけれど 君にとってはツラいんだろうな」

そう。わたしはツラい。整体でギックリ腰一歩手前と宣告されたからだが痛んで寝苦しくても、泡盛で焼けた喉の痛みがいつまで経っても治らなくても、どんなにしごとが憂鬱でも、それでも夜は明けるけれど、わたしはツラい。わたしを「普通」という刃で斬りつけたその手で、あっけらかんとわたしの、わたしたちのツラさを肯定してくれるSexy Zone。もうわかんない。なにもわかんない。わたしはただ北極星のように見上げればいつも同じところで光りつづけてくれている中島健人さんを目指して、すすんでいくほかない。ないんだけれど、いまツラいこの気持ちを、どうしたらいいんだろう。情緒がぼろぼろだよ。とりあえずもう一杯だけ飲んで帰るね、あしたも生きるために。